私と戦争の思い出 | いま、自分にできること

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こんにちは、yukiです。

今日は、私と戦争というテーマで、今思うことをつらつらと書いてみたいと思います。

目次

小学1年生:空を見上げられなくなった

戦争についての一番古い思い出は、小学1年生のとき。

担任の先生が、B29について話してくれた時のこと。

よく晴れた夏の暑い日に、それはそれは大きな飛行機が突然やってきて、何か黒いものを機体から落とした。

それは原爆というもので、空から降ってきたその物体は私たちの世界を焼け野原にし、一瞬にしてたくさんの人が亡くなり、人々の生活は変わり果ててしまった…

というような話。

この話は幼い私にとって強烈なインパクトを残したようで。

先生から話を聞いてしばらくは、空を飛んでいる飛行機やヘリコプターを見るだけで「爆弾が降ってくる…!」と考えてしまい、空を見上げることができなくなったり、布団に入って寝ようとしても「寝ている間にB29がやってきたらどうしよう」と体が震え、眠れなくなる日もありました。

今から30年ほど前のことなのに、先生から話を聞いた時の教室の様子、その時に窓から眺めた空、布団の中で体を震わせたこと。

今でもかなり鮮明に覚えていて。

小学1年生だったので、どこまで理解できていたのか今となってはよく分からないけれど、戦争という何かとんでもないことが起きて、それは世界をめちゃくちゃにしたらしい、というイメージが強く私の中に残り、これが私の戦争に関する原体験になりました。

小学6年生:リアルな蝋人形

修学旅行で訪れた広島。

被爆された方から当時のお話を聞いたあと、原爆資料館を訪れました。

そこで、原爆で被災された人のあまりにもリアルな蝋人形を見ました。

焼け野原にぽつんと立っていて、服はボロボロ、肌もただれた人がこちらに向かって歩いてくる…

まるで、今私の目の前で起きていることを見ているような気持ちになり、原爆が持つ破壊力への猛烈な恐怖と、とてつもない無力感を感じたんですよね。

もしかしたら実際の展示品とは異なる部分があるかもしれないけれど、私の中ではこのイメージが強く残っています。

原爆資料館は2019年に改修が完了して、被爆を再現した人形の展示がなくなったようです。
被爆者が高齢になり、若い世代へこれまで以上にわかりやすく伝えることが目的の改修だとか。

「実際には服が焼けて裸で、顔も性別がわからないほど焼けただれた人もいた」という被爆者の声もあり、誤ったイメージが独り歩きしないようにするために、蝋人形の展示はなくしたとのことです。

21歳:義足の彼

少し間が空き、次に私が戦争に触れたのは学生時代に訪れたボスニア。

その時は2ヶ月ほど、チェコやポーランド、ハンガリーやスロヴェニアなど東ヨーロッパを中心に回っていました。

ボスニアへ行った前日は、たしかハンガリーにいたと思うのですが、ユースホステルで同じ部屋になった年上の女性に「もし予定を変えられるなら、ボスニアは絶対に行く方がいいわよ」ととても強くすすめられて。

日本への帰国日だけが決まっているという旅をしていた私は、次はお隣りのクロアチアにでも行こうかな〜と思っていたのですが、多くを語らずに「とりあえず行ってみなさい」とすすめてきた年上の女性の話が気になり、行き先を急遽、ボスニアの首都であるサラエボへ変更

当時はスマホなどもなかったため、「地球の歩き方」以外の情報は何も持ち合わせていない状態で、現地入りすることになりました。

サラエボ駅へ到着し、その日の宿泊先であるユースホステルを予約。

そのホステルへ向かう道では、忘れられない光景を目にすることになりました。

というのも、普通のカフェやホテルの横に、銃弾で穴があいたビルが修理されることもなく建っていたり、立ち入り禁止のテープが貼られた建物が並んでいたり

戦争の面影を、色濃く残した街。

それは、日本ではもちろんのこと、私がこれまでに訪れた国でも見たことのない景色でした。

ボスニア紛争が終わってから10年ちょっと経ったタイミングでしたが、あまりにも戦争の痕が生々しくて、街を歩いているだけなのに変な緊張感を覚えたし、ずっと胸がざわざわしていたことを覚えています。

中が空洞になっているビルもよく見かけました

また、数日間滞在している間に、宿泊したホステルで受付をしていた同年代の男性と言葉を交わすようになり、彼のところへ遊びにきた友人たちとも一緒にお酒を飲む機会がありました。

その友人の一人は、片足が義足。理由は地雷を踏んでしまい、片足がなくなってしまったとのこと。

その時のことが詳細に語られたわけではなかったけれど、目の前にいる同年代の男の子が、片足を地雷でなくしたという事実はとてもショッキングで、戦争の恐ろしさ、悲惨さ、怖さの象徴のようなものとして私の中に残り続けています。

私は、平和な日本で生まれて、戦争のことなどほとんど考えることなく生きてきたけれど、同じ時期にボスニアで生まれた彼らは昨日まで友達や親戚だった人たちと突然分断させられて、次々と犠牲者が出るのを目の当たりにしてきた。

思春期の、とても心が敏感な時期にそんな経験をしたにも関わらず、一緒にお酒を飲んだ彼らも、街ですれ違う若者たちもみんな本当に明るくてエネルギッシュで、笑顔が溢れていて。

どんなに大変な思いをしてきたか、私には到底想像もつかないけれど、苦しいことやツライことを抱えながらも明るく生きる人たちの強いパワーに胸が締め付けられると同時に、人間って本当は強い生き物なんだなと感動のようなものも覚えました。

21歳:ガス室と、大量の髪の毛と

ボスニアを訪れた時のヨーロッパ旅行で、立ち寄ったポーランド。

こんなに時間をかけて東ヨーロッパを旅すること自体、今後の人生ではなかなかないだろうと思っていたので、アウシュヴィッツ強制収容所(以下、アウシュヴィッツ)へ行くことにしました。

アウシュヴィッツはこんなところ

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。収容者の90%がユダヤ人であった。

アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村に作られた。周辺には同様の施設が多数建設されている。

ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に世界遺産リストに登録した。公式な分類ではないが、日本では「府の世界遺産」に分類されることがしばしばである。一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(Wikipedia)

私は、歴史に詳しいわけでもそれほど興味があるわけでもなく、また当時から、基本的には気分が上がることに時間を使いたいタイプなので、日常生活においても旅行においても、気持ちが落ち込むようなことからは距離を取ることを意識してきました。

だから、こんなことは滅多にないのですが、「明日、アウシュヴィッツへ行くんだ」と考えるととてつもなく気が重くて。

前日の夜はめずらしくお腹が痛くなり、ユースホステルで知り合った人たちとのパーティーにも参加せず、一人ベッドでお腹を抱えて夜を過ごすことに。

朝になっても腹痛は続いていたけれど、どう考えても精神的なものだったので、重たい体を無理やり起こしてクラクフ発の電車に乗りました。

最寄り駅からアウシュヴィッツまでの道のりは徒歩で30分ほど。

駅の近くで、同じく一人旅をしていたイギリス人に声をかけられ、一緒に向かいました。

有名な門

「アルバイト・マハト・フライ(働けば自由になる)」と書かれた有名な門をくぐった瞬間、空気がガラッと変わった気がしました。

生きるに値しないと選別された大勢の人たちが命を落としたガス室、亡くなった人たちから集められた大量の髪の毛、「死の壁」と呼ばれた公開処刑場、有刺鉄線、収容者が眠っていた板の二段ベッド…

目に入るもの全てが想像を絶するものばかり。

あまりに衝撃が大きすぎるので、新たな展示エリアに入ったらまずはいったん目を閉じて、深呼吸をしてからでないと目が開けられない。

そして、やっとのことで目を開けても徐々に体が震え出し、説明文を読むと涙が出てくる。

すぐにでもここから立ち去りたいという気持ちをなんとか抑えてその場に止まること、そして目に飛び込んでくるものを受け止めることだけに、エネルギーを注いだ1日だったと思います。

収容者たちの宿舎
メインタワーから見た景色

夕方にはクラクフに戻ってきて、先ほど出てきたイギリス人の彼とビールを飲みに行ったのですが、アウシュヴィッツで見た光景を思い出すことを脳が拒否しているようで。

確かその彼は私より少し年上だったと思うのですが、お互いにショックを受けている状態だったこともあり、アウシュヴィッツのことは「ショックが大き過ぎたよね」程度しか話さなかったような気がします。

それでも、一人にはなりたくなくて、これまでに訪れた国や旅のこと、それぞれの国での生活など、何も考えずに話せるような他愛もない話題ばかりを選びながら、パブでの時間がただ過ぎていくのを待っていた記憶があります。

その後もしばらくは、アウシュヴィッツのことを少しでも思い出すと胸が苦しくなり、頭痛が起きたりもしていたので、意識して思い出さないように努めていたんですよね。

もう少し時間が経ち、大丈夫になったと思えば、改めて振り返る機会を持ちたいと思っていましたが、ほとんど思い出すこともなく15年が過ぎてしまいました…

今、自分にできること

ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが流れ始めてから2週間ちょっと。

あまりテレビは見ないものの、音声メディアやTwitterなどから入ってくる情報はあり、そのニュースに触れるたびに胸が締め付けられるような思いをしているのは世界中の方たちと同じだと思います。

こんな自分に今できること。

  • 寄付をすること
  • 過去から学ぶこと

寄付をすること

ウクライナ大使館に寄付をしようとしていたところで、前澤さんのTwitterが流れてきました。

「寄付金が武器購入日になってしまうのは避けたい」というのはまさに私が考えていたことだったので、紹介されていた団体のHPを見た上で、ADRA Japanにわずかながら寄付をしました。

私が寄付をした金額ではできることも限られているかもしれないけれど、ウクライナの方々のために、今自分にできることはこれくらいしかないのかな…と。

一回寄付しただけで満足してしまわないように、これからもその活動に賛同する団体へ、寄付を継続したいと思っています。

難民になってしまった方々に、食料や毛布など必要な物資が届くことを祈って。

過去から学ぶこと

今回、ウクライナ侵攻のニュースを見ながら「私が戦争にいうものに触れたのはいつだっただろう…」と考えたところから、「私と戦争」というテーマでブログを書いてみようと思い立ちました。

最近のニュースを見て不安になる、気分が落ち込む、無力な自分を感じて落ち込む…などという声はよく聞くし、戦争との距離感の保ち方にはとても難しいところがあると感じています。

ただ、漠然とした不安に飲み込まれ、自分の日常を暗く沈んだものにしたところで、ウクライナで大変な目に遭っている人たちが救われるわけではない。

それであれば、自分の身近なところにある何かをきっかけにして過去の戦争について調べたり、そこから学びを得ることが、自分にできることのひとつではないかな、と。

私はこの記事を書くにあたり、広島の原爆資料館やサラエボの紛争、アウシュヴィッツに関する記事をたくさん読みました。

また、記事にはしていませんが、ベトナムのホーチミンで訪れた戦争証跡博物館、日本の狂気を感じた鹿児島の知覧特攻平和会館についても思い返し、関連する記事を読んでみたりもしました。

戦争に関連する場所を訪れたことがなかったとしても。

歴史を知らなくても、戦争にあまり興味がなかったとしても。

過去に何が起きたのかを知ることは、戦争の悲惨さに改めて気付き、自分で考えるきっかけになります。

たまたま本に出てきたりテレビで流れていたり、何かのきっかけがあり、少し深く知ってみたいと思うタイミングがあれば、一部分についてだけでもいいので「まずは知る」ことが大切ではないかな、と思います。

この記事が、何か考えるきっかけになれば幸いです。

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この記事を書いた人

2歳、0歳の女児の母。2022年5月よりフルタイムワーママになりましたが、現在は第二子の育休中。風通しよくスッキリと、好きなものに囲まれて心地よく暮らしたい。

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